人生阿弥陀くじ
出来の悪い子ほど可愛い?
「将来成りたい者は何じゃ オマエ、夢はあるのか?」
才能を過信し、夢を肥大化させ過ぎると、人生の迷い道に入ってしまう。
憧れの人にあいたくて夜も眠れぬ三郎、窓の向こうにはお月さんがまん丸とかがやいている。あこがれの大阪へ、我らのヒーロー耕介さん、静かな宮崎の山村に虫の声が騒々しいくらいに泣き響く。
フェニックス、日南海岸、都井岬、内陸部に向かえば、えびの高原、韓国岳、霧島峰、天の逆鉾の高千穂峰、千五百メートルを越す山々が連なり、県境には、まほろばの里、霧島温泉郷が硫黄の匂いと共に点在する。そこから日向灘まで拡がる平地と丘陵地帯には、良い湧き水がでる。お陰で、農産物はよく育ち、酪農も盛んで、宮崎牛がモーと泣くのどかな田園地帯。歌手の鬼束ちひろや、今井美樹、時の名外相小村寿太郎、そして主人公の三郎もこの地で生まれた。
夢を追い求める空想家。仕事は嫌いで暇があれば町へ出てパチンコ、根はまじめで気持ちのやさしい男だが、いじめられやすい性格から強い者? に憧れるところがあった。百姓嫌いの都会好き、本や映画でみる世界に夢想花を咲かす。
同級生達は、暮らしが合わずに都会から戻って来た者や、転職を繰り返して堕落していく者。学校を出てそのまま地元の農協などに勤めるもの、実家の農業を手伝うものと厳しい現実社会に直面していた。
懲役から帰ってきた地元出身のヤクザ者耕介は、親の墓参りを済ませて大阪へ帰る準備をしていた。それを次の駅で待ち伏せをすることにした三郎。何が何でも子分にしてもらうと、数日前から家を飛び出し悪友から耕介が乗った電車の知らせを待っていた。
「来たぞ、来たぞ、何両目に乗ってるかな、ヨイショッと」
ドアーがしまりまーすと駅員の声が鳴り響く。
「今度、帰るときは立派なヤクザ? になって帰ってくるちゃが! アバヨ」
親の心、子知らず、とは良く言ったものだが、とにかく故郷に別れを告げた三郎。
「動いた。やったぞな、さあて、耕介さんはどこにいると? あっ、あそこ」
しばし、遠めから眺めていた。カッコええのぅ、足長いのぅ、180センチはあるちゃがね? ようし、ようし、思いきって言うちゃが、とそばへ駆けよって行った。
「あのうすんませんです。オレ三郎って言います、隣村のものです」
いきなり言い寄られて、一瞬シュワッと身を引いた耕介、長年のヤクザ生活で染みついた職業病?
「誰とね? あんた、わしを片桐耕介と知ってやっとると?」
「はい、ようしっとるとよ。オレを子分にしてください、おねがいするっちゃが」
「おまえアホか、わしの仕事なんかしっとるとね? 知ってて言うとるンかッ?」
と、宮崎弁と大阪弁をちゃんぽんにして凄んでみせたが、この日を待ちに待っていた三郎は、心の思いを告げた。
「はい。オレ、大阪に行って、立派なヤクザ! に成りたいっちゃがネ」
「おまえ、熱、あるのンとちがうか? 顔あろうて出直してこい」
しかし、新米ヤクザの使い道を知っている耕介は、大阪まで連れて行くことにした。
道中、他の客に仁義を切ったり、窓の外の景色に驚いたり、バカまるだしの田舎もの、あっちでくすくす、こっちでくすくす、と笑われながら新大阪駅に着いた。
「うわっー、大阪じゃーとうとう来たちゃが」と感激を隠せない。
田舎にはない光景にあっち見たりこっち見たりと首がじっとしていない。
「おい、サブッ、こっちやキョロキョロするなッ、人にぶつかるぞ、ほれみてみい」
混みあう駅構内でサラリーマン風の男とぶつかってしまった。
「あっ、すんませんですぅ」と、頭をペコッと下げてあやまったが、
「コラッー気いつけッ。ボケッー、どこみてあるいとるンジャー」と、怒鳴って早足で過ぎ去った。
二,三歩後ずさりして耕介の後ろに隠れ、
「ヒャーガラ悪かねー」と、驚きのあまり小ちゃくなっている。
「サブ、ここは大阪や、田舎とは違うで、普通の人でも田舎ヤクザ以上に怖いぞ。気ぃつけぇよ、特にオバハンにはな、損な喧嘩はでけへんでぇ、わかったか!」
「ほんなこて怖わかとネー、言葉がガラ悪かー、同じ日本人とは思えんちゃが」
と、口の中で、オバハン! 損な喧嘩? と、ブツブツとボヤキながら歩いている。
「ハヨタクシー、つかめ、乗って行くゾー」
耕介は融通の利かない三郎に怒鳴った。
「みんな並らんでるちゃがね、並びまっしょぅ」
まじめな顔で、極普通のことを言う。
「あほか、そこに止って降りるヤツおるやろが、それに乗ったらええネン」
エッ、と驚いて、タクシー乗り場を指さして、
「みんなあそこで並んでると?」
こいつは、アホか?
「お前の職業はなんヤ?」と、言われて、一瞬考えて自慢げにいった。
「農業!」
「あほんだら、今日からヤクザやろう、はよ乗れ、カメヘンから乗れっちゅうとンネッ」と、右足を大きく上げて、まわし蹴りを一発見舞われた。
「痛っー、ケツ蹴らんでもええがー」
「おのれが眠たいこと、ヌカすさかいじゃ、ボケッー」
罰悪そうな表情で運転手がうかがった。
「どちらまで、行きましょう」
両膝を目いっぱいに広げてタバコを燻らしながら怖い声で耕介が言った。
「ナンバまでいってくれ」
運転手は嫌な顔をしたが、逆らってはまずい。素直に、はい、わかりました。と、チェンジをローに入れた。
「今からおれの女のマンションに行くから。行儀ようせいよ」と、横にきちんと座っている三郎を見て言った。
「兄貴には恥じ欠かせんちゃが、ほんなこて、その女の人は、姐さんになるっとね?」
今の身分では、親分と呼ぶな。他のものに対して罰が悪いから兄貴と呼べと、耕介は命じておいた。
「まッ、そういうこっちゃ」
「極道の妻ですね。かたせ梨乃みたいにべっぴんと? それとも岩下志摩みたいと?」
満更でもない耕介は苦笑いを浮かべて、ヘッヘッヘー、
「それは、会うてからのたのしみヤ」
「まさか、三田佳子じゃないと? あれは息子がチョット出来が悪い、親不孝もんちゃがね」
「その口チョットだまらんか、この映画ボケ」
「さしづめ、おれは世良公則かな」
「運転手が笑ろとうるやろ、どのつらさげて世良公則って言うとんネン、アチャコみたいな顔さらしてからに、お前降りて田舎帰れッ」
やっとのおもいでたどりついた田舎者と元田舎もの。大阪に集団就職で来てから十八年、仲間と肌が合わずけんかして、そのまま少年刑務所に入った耕介、そこで知りあった建造にさそわれるままにやくざ社会に転がり込む。建造は筋金入りのやくざで、鑑別所、少年院と、出たり入ったりの札付きで、子供のときは孤児院で育った。親の顔は知らない不幸な過去を持つ、いまでは本家道頓堀組の若衆頭を張り、自らもアメリカ村を縄張りにする小さな組の組長でもある、耕介はその舎弟分にあたる。
耕介の女リカは、組が面倒をみるヤミ売春宿のベテランヘルス嬢であった。沖縄から安室奈美恵にあこがれて出てきた元歌手希望の小柄な沖縄美人、性格は大らかで優しいが、どっぷりとこの世界につかってしまってる。業界では歌の旨さから、ヘルス界の天道よしみと言われていた。ちょっと小太りでグラマーな耕介の情婦である。
♪ピンポン♪
ドアーが開いて中から浅黒い顔にくっきりとした瞳。ツヤのある黒髪を右手でかき上げ「お帰りアンタ、遅かったやないの」と、南洋の香りが漂う笑顔で首をキュッと右に傾げた。
「いや、チョット荷物ふえてな」と耕介は左に目線をやった。
モジモジと両手を前に組み三郎はうつむいている。
「荷物って?」
となりにボーと突っ立っている三郎を怪しげに見て、「いらっしゃい」と、かるく頭をさげて、どうぞとドアーの中に招き入れた。
「おじゃまします」
三郎はお辞儀をして、泥だらけのスポーツシューズを脱いでリビングルームに上がり、正座をした。
「楽にしてネ」と、耕介の連れてきた荷物に気を配り緊張をほぐしてあげようと笑顔で声をかけるリカ。そのまま台所に行きビールとウイスキーを出している。
「手伝います」と、そばへ寄り、「ヘヘン」と、ニヤケた笑い方をした。
リカは色っぽく明るく微笑んで、振り返り、
「これ、耕ちゃんとこに持っていって」と、お盆と缶ビールとウイスキーを手渡された。
「コップは?」と、リカをチラっと見た。その時ピタッと、視線があった。
耕介はコップにビールとウイスキーを入れてグイッと一気に飲み干し「あー」とひと言いって、「風呂入るでェ」と、服を脱ぎながらバスルームに消えた。
二人だけが リビングルームに残された。気まずい空気が流れたが、日々の仕事で男の扱いになれたリカ、話を聞きだし緊張をほぐすのが上手い。
「あんた、何か特技あんのン?」
首を横にフリフリ何にもないです。
リカは思った。まだ、無垢で純真な子があこがれと興味本位でヤクザの世界に入るのか? 自分も若いときに歌手にあこがれてプロダクションのマネージャーに連れられ東京へ出ていった。ウソとホント、人情と冷酷、足の引っ張り合い、蹴落とし合い、人間という生身の欲望と我欲の狭間に立たされ利益の追求に翻弄され、飼い殺されそうになった。知人を頼って沖縄出身者の多い大阪大正区に逃げ出してきた八年前。 そこでアルバイトで働いていたスナックで、優しくしてくれた耕介の言葉巧みな愛に溺れて今のリカが出来た。決して幸せは感じないが、生きているという実感だけはある。
さっと風呂を上がって出てきた耕介が、三郎に遠慮するなお前も飲めと、リカに酌をすすめた。
「はい。いただきます」と、ウイスキー入りのビールをもって、これって兄弟分の盃ですか? と、耕介に聞いた。
「おう、片目盃やと思うとけ」
「ウワー感激秀樹」と、喜び勇んでる三郎。
「姐さん、カメラないっすか?」とリカに言った。
「姐さんやて、チョット勘違いしてるのと違う? いったいカメラなんかどないするのン」と不思議そうに聞いた。
「田舎のダチ公に見せてやりたい、オレも立派なヤクザになった」と、胸をはって、アゴを突き出し、威張って見せた。
耕介が笑いながら、まだ、なってないがな、ただ、お疲れサンって乾杯してるだけやがな と、自らも風呂上がりのウイスキー入りビールを傾けた。
二,三度盃が、いったり来たりした。その時、急に三郎が兄弟仁義を歌い出した。
♪親〜の血をひく兄弟〜〜より〜〜も〜かた〜〜い契りの〜義兄弟〜♪
「コイツもう酔うとるわッ、酒の弱いやっちゃな」
ウイスキー入りのビールを飲んだ三郎は一気に酔いが廻ってしまった。
交替で、シャワーを浴びにいっていたリカがニヤニヤしながらこの子は陽気で明るい子だという顔で、もう一杯いかが、とボトルを持ち上げて、更に注いだ。
「すいませんですゥ」と、赤い顔でグラスを出して頭を下げる。
田舎では、どんな仕事していたの? 何でヤクザになンか、成りたいの?
リカが母親のように、優しく事情を聞いている。
「ふーむ、牛の世話してたン、ウチのいなかにもおったよ、ええなぁ、牧場って」
「いやー、そんなええもんじゃないっちゃが。姐さんは、田舎どこですか?」
しばらく目線を上にして、懐かしそうにリカは、
「ウチかぁ、沖縄や、ええとこやでぇ、行ったことある?」と、友達のように言った。
「ないっす、上二人が小さいときに死んでしもうて、大事にされてたからどこにも、たまぁに隣町にパチンコをしにいくぐらいっちゃがね」
親は苦労して大事に育てた子なんだ。……優しい、くりっとした眼差しで聞いた。
「そう、そんな人が、またなんで?」と、こういう若者を数多く見てきたリカは、三郎に問うた。
三郎は、ややハニカミながらも目を輝かせて答える。
「カッコウいいっちゃがね、兄貴見てると、まるで高倉健ちゃが」
やっぱり! 今まで何人もの多くの極道志願者達が繰り返して言う決まり文句。
あッ、この子夢観てる!
「懲役行きたいンか? 親泣くよ」
「懲役って? 網走番外地か! 行って見たいっちゃが。あこがれの場所ナンバーワンじゃ、あそこは」
話も弾みすっかり酔いがまわってきた三郎に、お風呂でも入って、あっちの部屋で、早く寝なさい、と目で指し示した。
「はい」とうなずいて三郎はグラスの残りを空ける。
「ウチらすることあるから、先に寝るで」
することあったら自分も手伝うとネグリジェ姿で立ち上がったリカの顔を繁々と見つめる。
「アンタ、頭にぶいなぁ、ウチら久ぶりに合うてんでぇ」と、耕介の方をニヤッと笑って見た。
「あっあっ、あーっ……そうか。……兄貴もスキですネェ、クックックッ」
苦笑いをしながら耕介が、怒鳴り気味に言った。
「じゃかましいわい、泊めてもらうだけでも感謝せいよ、何も考えんと眠れよ」
酔いも手伝って饒舌になっている三郎は、ニタニタと鼻の下を伸ばして、
「そんな、無理にきまってるちゃがネー、この若い肉体が、いやーんばっか、おやすみなさい、姐さん、兄貴、へっへっへっ」
大阪初日は、リカのマンションで一夜をすごした。片目盃をかわした感激と、隣の部屋からもれる絶倫のうめき声で、眼が冴えまくって眠れない。トイレに行くことも、寝返りをうつこともできない。やくざの男とその情婦の秘め事、かれら極道社会の人間は一般人とは、どこか違う。常に最高のものを求める習性があるのかも知れない。明らかに何かを注射しての行為! それは覚せい剤か? 疲れの知らないそのいとなみは、まるで、人間が野生化したように、ヘビのように絡み合い、どろどろとした男と女の生の欲情が渦巻く。
筋骨たくましい耕介の背中一面に彫られた観音菩薩の刺青にリカの爪がたった。「ウッ」とピンク色に染まった豊満な裸体が悶えうごめき足の指が反り返った。
皮膚から肉へ、骨の髄まで沁みこむほどに悦楽の時は流れていく。
「よう眠れたか? サブ」と、薬のお陰でまったく疲れを見せない耕介。
呻き声で一晩中あらぬ事を考えて眠れなかった三郎。
「おかげさんで、はい、といいたいけど、ぜんぜん」
意味が分かっている耕介は、とぼけて薄ら笑いを浮かべて言った。
「なんでヤ、はよ寝たのに?」
「よく、おっしゃいますね、 何時までやってたとネ?」
「聞いとったンか?」と、三郎の顔の前に、すまなんだなぁ、と顔を持っていき笑いながら頭を軽く、コイツとこずいた。
「聞こえるちゃがね、となりむらまで、眼が真赤かっーあー眠たいと」
「これから、オレの兄貴とこに行くから丁寧に挨拶するンヤど」
一瞬、ドッキッとした三郎、耕介の兄貴分は小さいながらもアメリカ村にある三角組という一家の親分でもある。あこがれの立派なヤクザになるための面接試験を受けるような衝動に駆られていた。
「すぐ出かけるぞ。……アホッ、朝のションベンは、音大きいから、外でせいっちゅうネン。リカが起きるやろぅ」
「外? 人が見るちゃがね!」と前を押さえながら顔も洗わずマンションを出た。
此処でしろと、よその壁に向かって二人してやり始める。
「なにが、はずかしいネン、さっさとせんかッ、行くでッ、はよせいっちゅうネン」
用を済ませてチャックを上げて歩き出す耕介。
「まってください、まだのこってるっちゃがね、昨日ビール飲んだから止まらんがね」と、足元を何筋も流れる小便を器用によけながら用を足している。
「知るかっ、務所いったら、おそいやつは蹴っ飛ばされるぞう」
あわてて一物を仕舞い、走りながら手をかざして、
「どこで、手洗うと?」
振り返った耕介はあきれて、あーあ、という顔で言った。
「アホか、ここは保育園か? 自分でなめとけ」と怒鳴られて、ズボンで手を拭き拭き後をついていった。道頓堀橋をこえて左に折れてアメリカ村の裏通の方へと入っていく。
「こっから歩いてすぐや、わしの務所友達でな、ええ男やで、本家の若頭で、自分でも組もってはる、バリバリの売り出し中ヤ」
やや興奮してきた三郎はあこがれのほんまものの親分に会う感動を抑えきれない。
「すごい! 立派なおかたじゃ」
「へんなほめかたするな、やくざは自分で立派とは誰一人思うてヘン、世間からはじきとばされたから、やっとうるンヤで」
「それでも一家の親分に出世した。うーむ、やっぱ立派ちゃがね」
「まっ、そいうたらそやけど。ここや、ちょっとまっとけ、わしが先入るから、おい、サブはいって来い」
両手を腿にピタっとつけたまま「オジャマシマース」と緊張のあまり声が上ずった。
耕介は、しかめっ面をして首を右にひねりながら「兄貴こいつでンネン」
恰幅がいい。腹はやや出ているが体育会系の身体、顔は脂ぎっていて、ひと目で極道者と分かる。
「おう、おもしろそうなヤツやな、まぁ磨いたらなんとかなるやろ」
緊張と興奮で石の地蔵さんにでもなったような三郎に耕介が声をかけた。
「おい、三郎あいさつせんか、はよっ、」
三郎は何を思ったのか、咄嗟に仁義を切り始めた。
「おひかえなすって、手前、生国と」言いかけて、コラッーと、頭を叩かれた。
「アホッか、なに仁義きってンネン、今何時代やと思うとるんじゃ、このボケッ」
子供のときからよそ様の家では行儀よくしろと育てられた環境から出たのか?
「でも、ちゃんと、あいさつせんと失礼になるちゃがね?」
「仁義のほうが失礼になるわ、兄貴すんまヘン、いなかもんやさかい、こいつチョット脳ミソのスプリングはずれてマンネン」
恐縮して兄貴分の建造にあやまっている耕介。相手が緊張していることを見抜いているヤクザのプロは、こういう時はやけに優しい、なぜか。
「あっ、はっ、はっ、はっー、おもろいヤッチャな」
親分の笑う姿でやや緊張がほどけたのか、硬くなっていた口がやっと開いた。
「あのう、南国三郎といいます、がんばって立派なヤクザになりますからどうぞよろしくお願いします」
「あっ、はっ、はっ、はっ、腹痛いワー、こいつ、立派なヤクザ? はっはっはっー」
戦闘服に身を包んだ組員全員が笑っている。まじめに言ったのにと怪訝そうな顔で三郎は訊ねた。
「なんで、みんな笑うと?」
連れてきた責任者の耕介は額からあぶら汗が流れていた。しかし、雰囲気がほぐれたのを見計らって、
「おのれだけは、汗かくワッ、他のみんなも面倒みたってくれヤ、のぅ。サブ、おまえもあたま下げェ」と首根っこを押さえつけられた。
ほぐれついでに、また言ってしまった。
「盃はいつくれると? ネッ」
初対面のときは寛大な親分は笑顔でおだてる。
「あっはっはっはっ、まぁ、あわてるな、ゆっくりしていけや、文太の兄さん」
ビックリした三郎! ほんまもンの親分から言われて、また、感激してしまった。
「おっ、オレが文太、あの菅原の文太か、うれしいこと言うてくれるっちゃがね、兄弟分にならんとね」
親分は、周りの組員を見渡しながら目以外で笑っている。
「めちゃくちゃ、おもろいがなこいつ」と鋭い目線で耕介を睨んだ。
冷や汗をかいている耕介の顔が強張ってイラついている。
「サブ、口を慎めッ、わしの兄貴言うてもここの親分やドー」
まぁまぁ、と手で制しながら、
「まぁええがな、わしの兄弟分の舎弟やから、云わば、わしの又弟や、しっかりきばって立派なヤクザになっておくれや、盃は、しのぎができるようになってからや」
あっそう、というキョトンとした顔つきで三郎は目線のほうを指差した。
「ほんなこて、本が何でこんないっぱいあると?」
三郎は棚にズラッと並んでる本を見て驚いてる。おもむろに親分が口を開いた。
「極道もんは、読書好きやで、みんな懲役行ってるからなぁ」
咄嗟に三郎には理解が出来なかった。ドスとチャカを振り回すのが極道ではないのか? 本を右手に持ったヤクザなんて見たことない。右手には道具と呼ばれる、短刀(ドス)か拳銃(チャカ)を持って殴りこむ、それが任侠渡世とばかり思い込んでいる。
極道社会の純文学? 「塀の中の懲りない面々」「山口組三代目」「激闘!殺しの柳川組」「浪華遊侠伝(俄)」「極道の妻たち」等等。刑務所では、自由時間には主に読書を推奨する。暇を持て余す受刑者達は好きな本を自由に読むことが出来た。また、知人縁者から本の差し入れもある。最近の極道者は、司法書士くずれ、大学の法学部中退者、体育会系の筋肉マン。昔と違って、高学歴の者が多く学士極道と呼ばれる知的な者たちが多い。只のチンピラは何処でも鼻つまみ者でマンガ本を差し入れてもらって娯楽室の片隅でこっそりと読んでいた。一般社会と何ら変わりなく、極道社会も学ぶ精神に欠けたもの、勉強のしない者は出世街道から取り残される。そういうものたちは、自ずと鉄砲玉(ヒットマン)になるしか生きる道はなかったのである。 出世のため幹部になるためには、頭をつかってしのぐか、人をあやめるかのどちらかしかなかったのである。あやめることしかできないものは、遅かれ早かれ覚醒剤に溺れ、自らの身体を痛めつけて虚勢を張るしか極道社会での生きる道など今の近代ヤクザ社会にはなかった。昔ならば、組のため親分のためと懲役に行った者は、ヤクザの鏡とされ功労者として組の幹部となり、兄貴分として大きな顔が出来た。すなわち学歴の変わりに前科歴が多い者がヤクザの勲章として他の組に対するハッタリも効き高給優遇されたのであった。しかし、今の新法、暴対法が出来てからは、法の網をくぐることが出来るアイデアを考えつく者のみが生き残った。その代表格のしのぎが金融屋という、云わば、街金の高利を貪る悪徳金融が代表的なものである。また、所在地をくらましながら、通信販売をする裏ビデオ業、競売物件専門の不動産業、さらに悪知恵の働く者は宗教法人を作って税金逃れをする。極道社会から足を洗ったと見せかけて、刑務所内で読んだ聖書やお経を基に神父や牧師、伝道師、さらに僧侶と姿を変えても背なで吠えてる唐獅子の傷痕は消すことは出来ないのであった。
知恵の無いものは、そのものずばりのシャブの密売、売春、暴力的な債権取り立てなどしか、しのぐ道はない。資金を持った幹部や親分は早々と引退し土建業や、パチンコ産業、廃品回収清掃業、法律ギリギリに金利を取る金融業。と、姿を変え法人化して代表取締役となり臭いメシから遠ざかるのである。そして、表向きは極道社会すなわちヤクザ社会からは、距離を置く振りをするのである。警察はそれを知りつつも見て見ぬ振りをしている。なぜなら、警察を定年退職したものたちの再就職先(天下り)は、調査機関と銘打った、情報を売る調査会社。盗難保険の調査会社。そして、自動車事故などを調査する別会社。それらの持っている情報は、顧問役員となっている警察OB(天下り)の知るところとなり、闇社会に領収書のない別料金として流れていく。
「兄貴の好きな本は何ですか?」と三郎が聞いた。
「ワシか、わしはな、なんちゅうても五木寛之やな、青春の門、あれはええなぁ」
ポカーンとしながら三郎は聞いている。
「その次は?」
「次か? 海音寺潮五郎の時代物や、それに村上龍や、みんな九州もンやさかいな」
あっそうか、とばかりにうなずく三郎だが作品など触ったことも見たこともない。まして、同じ九州にこれだけ有名な作家がいたとは!
「なんちゅうても大阪刑務所時代には一番人気があったンは、司馬遼太郎ヤで、国盗り物語り、菜の花の沖、坂の上の雲、あれはええわっ、手に汗握る、胸がワクワクするしな、自分がヒーローになった気分になれる最高の本やで、極道もんとか野心の強い政治家が好んで読ンどうるワ、傑作は、俄(にわか)の明石屋万吉ヤな、任侠道の神様みたいな本あったなぁ」
勉強のために懲役でも行こうかな? と、バカなことが脳裏を横切るのであった。
「サブ、お前の好きなな純文学! は何や?」
「ハー、ぼ、僕はー、ハー、少年……ジャンプっちゃがね」
ワッハッハッハッーと笑い転げる耕介であった。
二人は親分に挨拶が済んだ後アメリカ村を歩いていた。キョロキョロと田舎と違う雰囲気に酔いしれていた三郎は若いアンちゃんと、またぶつかった。
「こらーッボケッー何処見て歩いてケツカンネン、ドタマかち割ったろかッーボンクラ」と、またもや怒鳴られる。いかにもナヨっとして弱そうに見えるタイプの三郎。顔見知りの耕介は黙って見ていた。
「何で助けてくれんと?」
「あんなチンピラどついてパクられたらかなわん、一発なぐって三ヶ月はくらうからなっ」
上に立つ極道者は、そんな小さなことには目もくれず相手にもしない。しかし、喧嘩に負けたらヤクザはおわりや、と腹の中では思っている。耕介の顔を見て喧嘩を売るものはいないが三郎はチンピラのお客さんのような顔つきだった。日に日にその顔もヤクザ顔へと普通は移り変わっていく……はずだった。が、何せ元の作りが作りだけに手のほどこしようがなかった。いつまでたっても腑抜けた顔でしまりがなかった。フニャ
田舎を飛び出して、地元出身の前科者耕介の弟分になり上部組織の親分にも挨拶が済んだ三郎、金融屋から債権取立ての仕事(しのぎ)が入った。
追い込み! 映画の世界しか知らない三郎、言われるままにやるが、何処かちぐはぐ、元来、気が優しい三郎に取立てが出来るのか? 金額は僅かだが、三下ヤクザにとっては重要な食い扶持。
「サブ行くぞ、ベンツ出して来るから、ここでまっとれ」
ベンツと聞いただけで興奮する三郎、田舎では耕運機にしか乗ったことがない。
「へー、ベンツか、生まれて初めてちゃが、よーし、コンビニでカメラ買おうっと」
記念の想い出にとカメラを持って兄貴が来るのを待っている。
「こらっ、そこどけっ、あぶない、どこで写真撮っとるネン、こらっ、サブ」
「記念に一枚撮ってくれんかのう、おれ運転席に乗るから」
取立てに行く耕介は緊張している。煮え切らない弟分の頭を思いっきり、
「いーったっー、痛いがね、なんでなぐる、暴力はいかんがね、いーったっー、本気で殴ったでしょう」
「あたりまえじゃ、これから追い込み行くのに、記念写真撮るヤツがどこにおるンじゃ、この鼻くそっー、はよ横に乗れ、つかまっとれ飛ばすから」
ベンツ300SLのアクセルを目いっぱい踏んだ。鈴鹿サーキット直線の猛烈な加速にも似たボディへの衝撃、しかし、ここは大阪のど真ん中御堂筋。
「チョット危ない、危ないって、信号守らんと捕まるっちゃがね、街の真ん中で何キロ出しよると? 法律違反じゃ! 警察がくるっちゃがー」
手すりをつかんでビビってる、手には汗がびっしょり、足をつっぱり手すりを持っても、恐怖が襲ってくる。ブーンブーンと猛スピード。
「このアホだまっとれ、警察が怖かったらヤクザ出来るかッ、夜逃げさらすまえに捕まえるんジャー」
耕介の渇が飛んだ、おそるおそる三郎は聞いた。
「どこまで行くとね?」
「神戸の六甲や」と、聞いたとたんに三郎の顔がなぜかゆるんだ。
「前川清の歌に出てくる街か?」と流し目で運転席の耕介をチラリと見た。
心はウキウキ気持ちは冷や冷や、神戸に行ける気分で歌も出るが、債権取立てには自信がない。
「嬉しいなぁ、いっぺん行って見たかったちゃがネー」
♪パパパパパパーパー♪神〜〜〜戸~~泣いて〜どうなるのか〜〜♪パパ、パパ、パッパー♪神〜戸〜〜と、物まね交じりで歌いだした。
「やかましいワッー、このがきゃ」と、頭をまた一発、バッシー、
「遠足とちゃうぞ、今日の仕事は三十万や、たいした額と違うけど、全額とったら分け前は、半分や、ええかっ」
「と、言うことは、十五万円も、もらえるとね、ええ仕事やね」と田舎ではいくら牛の世話をしても貰ったことの無い大金に目がくりくりした。
「それがな、最近ではすぐ破産宣告しよるさかいに、取れるものも取られへンのンじゃ、破産宣告するのに弁護士代が三十万や、しやから先に取ってしまわんとやられてしまう、わかったか、このスカタン」
「ときどき、わけの分からん言葉つかうとね、それって日本語か?」
「いちいち質問するなッ」
阪神高速をぶっ飛ばし、スピード違反丸出しの運転、無人カメラも何のその、名義はすべて借金のカタにはめた他人名義。
耕介と三郎は目的地のマンションについた。逃げられないように非常階段のチェックをし部屋の中に債務者がいるのを窓の外に干してある洗濯物で確認した。はたして今現在部屋の中に住人はいるのか空き部屋となった部屋に他の住人が住んでるのでは? と思い再度洗濯物の中に赤ん坊の干し物があるのを確認して依頼者からの情報どうりほぼ間違いないことを確信する。三郎に知恵を授けて指示をした。三郎の風体はまるで電気の検診係か宅急便のアルバイトといった姿格好だった。エレベーターで五階まであがり三郎にチャイムを押させた。耕介は背中を壁につけて目で三郎に指示する 。三郎はのぞき穴に顔を近づけて、ニヤと笑った。中からどちらさん? という女の声が……三郎は教えられたとおり力の抜けた顔で、のぞき穴に一杯顔を近づけて、宅急便です。と軽く言った。……部屋の中から宅急便? という怪訝そうな声がしたが、緊張感のない三郎の顔に油断したのか、留守番の者です。という返事はなかった。中からチェーンをはずす音とドアのロックをはずす音がして、ガッチャとドアがすこしだけ開いたその瞬間、耕介の右足がサッと滑り込んで、ウイスキーで焼いた、しわがれダミ声が飛んだ。
「おっと、まだ、用事済んでないでェ、足痛いから中に入れて貰うかッ」
つかさず、ドアーを閉めようとされたが左手で遮って、からだも中へ入れた。
「ナンバ金融からきたんやが」と委任状を見せてまたドスの利いた声を発した。
「困りマンな、連絡とだえたら、今日は耳そろえて返済たのんまっさ」
奥には赤ん坊が寝ており、さほど暑くもないのにクーラーがついている。玄関口にある台所にはゴミ袋が二、三個無造作に山積みされ、出前の寿司の大皿小皿、炊事場には茶碗やどんぶりがいつ洗うのか、と首を傾げたくなるほどにどっさりと積まれている。テーブルの上には、読みかけの週刊誌や、マンガ、そして、ブランドの専門雑誌。さらには、数十万円はするであろうシャネルのバッグとサングラスが無造作に置き去りになっている。奥の方から仕事が休みなのか遊んでいるのか、亭主らしき男がのっそりと起きてきて、パンツのゴムのあとを掻きながら、すだれの、のれんを頭でそのままくぐり眠たそうなヤニのたまった目をこすり、延びきった声で、
「うるさいなぁ、誰やネン」と出てきた。
ナンバ金融からたのまれた取り立ての人達やと、金銭感覚のなさそうな妻らしき女が、濁りのある小声で喋っている。
「エッ」と、一瞬驚いた表情が顔に出たが慣れているのか正常な顔に戻った。
「いつまでまたすンヤッ、はよ出すもんださんかいッ」と、カマシを一発入れて、耕介はすごんでみせた。
一方三郎は、ほぼ直立不動の格好で私は関係ありませんという顔で、微動だにしなかった。
「急に人の家に上がり込んで何ですかっ? 警察呼びますよっ」と妻らしき女は開き直るように向かってきた。逆に男のほうがビビッている。亭主らしき男の右手には、「借りた金は返すな」という最近ベストセラー になっている本が持たれていた。その表紙が耕介の目に止まった。「なにッ」と思った耕介は何かが閃いたのか、山勘で、「オマエら、弁護士とこに相談に行ったやろう、破産宣告して逃げようおもうてもそうは問屋は卸さんでェ」
「アッ」と、咄嗟に本を隠したが目に生じた変化を耕介は見逃さない。その時急に奥へ入った亭主らしき男が大声をあげて泣く赤ん坊を連れてきた。赤ん坊が泣くから静かにしてくれ近所に迷惑やし、お金もないから今日の所は帰ってくれ、と常套手段に出てきた。
なれない三郎は、耕介の右手を引っ張って、耳元に口を持っていき可哀想だから帰りましょう、とまんまと相手の泣き落とし作戦にはめられている。
「こいつら、赤ん坊のケツつねって泣かしとうるンじゃー」と大声を出して、つづけさまにテーブルを右足でけっ飛ばし、拳骨で壁をゴツンとなぐり威嚇をして、
「弁護士とこに持っていく金ダサンカイッ」とさらに凄んで見せた。その形相は百%ヤクザ顔になっている。
ケツをつねってる? と聞いた三郎は赤ん坊を取り上げて、ベランダの方へあやしながら、緊張したソプラノのように高い声でこの若夫婦らしき二人を見ながら、
「赤ん坊のケツ、つねるっと! ウソばつくと? ウソは泥棒の始まりちゃが、おまけに借りた金返さんと、あんたら人じゃないっちゃが」と方言丸出しで言ってしまった。あーしまった。と、耕介は思った。
三郎はベビーシッターのようにヨシヨシとあやしながら、冷えすぎた部屋の窓を開けてベランダへと出た。債務者の二人は、いつもの取り立ての荒々しさのない三朗を見て不気味な者でも見るように、逆に 恐怖感がおそってきた。ひょっとしてシャブ中毒者! 精神異常者! 子供をベランダから落とされたら、とまだ血の通った人間の部分が残っている二人は、耕介に聞いた。
「あの人、大丈夫ですか?」
場慣れしている耕介は咄嗟に雰囲気をよみとり、薄ら笑いを鼻に浮かべて、
「さあな、わしは知らんでぇ、はよ言う通りしたほうがええのンとちゃう?」と上目遣いに若夫婦らしき二人の目を覗き込むようにして睨んだ。
亭主らしき男が女になにやら、不安がって言っている。どうも、子供をベランダから投げ飛ばされると思っているのだろうか? そうだとしたら相手は精神異常者! 罪は軽い。
「分かりました。今これだけしかありませんから、今日の所はこれで堪忍して下さい」と、弁護士に持っていく破産宣告費用の一部二十五万円を男が出そうとしたとき、
「チョット待ってッ」と、いかにも生活感覚のないブランド狂いの女漫才師のような顔の女が、ガメツク言った。
「負けてっ! 全部持って行かれたら困る。破産宣告するためにやっと借りてきた金やから、全部は困るネン」
ここを落としどころと睨んだ耕介は、「分かった、二十万円で手ェ打ったら」
すると、その女漫才師のような顔の女がまた叫んだ。
「もっとマケテッ、お願いッ」と両手で合掌するように拝んで見せた。
「アホかッ、オマエの持ってるブランド品をリサイクルショップに全部持っていけ、その壁にかかってるエルメスのバッグだけでもええ値段ではいるやろう、スルメみたいな顔さらしやがって、なにがエルメスじゃ、なんあったらバッグ持っていってもええねんドー」
「アカン、バッグはウチの命や」とブランド狂いの女漫才師みたいな顔がほざいた。
亭主らしき男があの人何とかして下さい。と三郎の方を指さした。大丈夫なんですか? あの人? いつ(精神病院)出て来はったンですか?
「あー、あいつな、昨日や」
「やっぱり! おいママ、言う通りせッ」
調停書に印鑑をつかせて、全額は取れなかったが二十万円を回収する事ができた。慣れた耕介は、あれ以上追い込むと窮鼠ネコを噛むのことわざの通り開き直られてどうにでもしてくれと言いかねないことを知っていた。
「サブ、帰るぞ。もうここには用事はない邪魔したな」と颯爽と出ていく耕介。
三郎は丁寧に頭をチョコンとさげ、赤ん坊を手渡してうつむきかげんに小走りで出ていきながら、「兄貴、何か、可哀想なことした気分ちゃがね」
「なんでや、あいつらオマエのおかげで指の一本も折られんで助かりよったがな」
「明日からの生活は、どうするちゃが?」
「そんなン知るかい、金にだらしないヤツらは欲しいもンあったら借金してまで買いよる。もっとひどいヤツは犬まで借金や、アイフルちゅうてな」
世上を反映してる出来事に出くわした三郎はどこか消化不良のようにしっくりしないものがあったが、耕介に、ここはのどかな田舎とは違う、見栄はってブランド物を持ちたいがために平気で金を借りる。一度借り癖がつくともう治らない。あげくのはては、借金など返さんでもええちゅう破産宣告に簡単に走りよる。その弁護士料も借金や、去年の破産宣告者が二十万人と三年連続、多重債務者が百五十万人や、これは不景気とは違う別の問題や、責任感はゼロ、子供も生んでもほったらかし、ファーストフード、ジャンクフードばかり食わして母親面。ほっといてぇ関係ないやろう、人に迷惑かけへんかったらええねやろう、エッチエッチのセクハラやー、が、今の都会の若者であり、氾濫している日本語である。高い下着買うて、無い乳つり上げて、でかいケツよせて上げて男の目ばかり追っかける。あの二人もたぶん戸籍の入った夫婦とは違うやろう。こんなだらしないヤツらがおるからワシらはメシが食える。と帰りの車中で聞かされた。 何故か車の中には六法全書が積まれている。不思議そうにそれを見ている三郎に、耕介は言った。
「お前も、立派なヤクザになりたかったら勉強せいよ、これからのヤクザは法律知らんとブチ込まれるだけや」
不動産業法、金融業法、風俗営業法、法の網に掛からない刑務所の塀の上を歩くぎりぎりのヤクザ商法。後援者は元法律の番人たち。
泣くのは無知な一般市民だけ、笑うのはいつの世も悪代官と組んだ知的犯罪者。
そろそろ店を空ける時間が迫ってきていた。店内の掃除も済み客寄せの盛り塩も終わり、あとはお客を待つだけである。
「友江君、ボーとしてんとお客さん案内せなアカンでしょう、空ばっかし見てクレーンでも落ちてくるンか、また、芥川賞の夢見て! 首になるよ、ええ加減に小説のこと諦めや、芦屋のパパみたいになったらどうするのン、誰も相手にしてくれへンようになるし」
古株のリカが小説狂いのバイト青年に怒鳴った。
「リカさんお客さんですッー」
「お客って誰やのこんな早い時間から、どこのスケベー親父や、いやー、芦屋のパパやないの、久しぶり、小説書いてはる? そう、また見せてね、今日はゆっくりして行って、ネッ、チュッ、ギムレットでも飲んでてサービスするわ」
今日の当番は、酔っ払いや金のない客をたたき出すだけの仕事である。あとは駅前でチラシをくばったり、看板をもったりと、身体張ることはまずない、退屈な仕事である。しかし、売り上げはバカにならない、重要な組の資金源だった。働く女のほとんどは、素人で人妻、OL、女子大生と一見まじめな女性が多かった。ヤクザの情婦はリカぐらいのものである、求人を出せばいくらでも働き手はあった。旦那がリストラされて、生活のためにやむをえない事情を持った女たちがほとんどだ。日当で3万から5万にはなっていた。その金で家計を助け、子供にはピアノを習わせ、塾にも通わす。決して自らは贅沢などはしない、涙ぐましい女、母の底力、短時間勤務もOKの今や女性たちの間では人気の職業だった。……闇の世界では……
「パパありがとう、チップもたくさんもろうて、また来てね、大好きよ、チュッー」
リカにかかるとこの手の客はお手の物。三郎がニコニコしながら見ている。
「姐さん、お疲れさんでした。元気な、よう喋るオッサンですネェ」
帰っていく客の背中を遠めに見て言った。
「そうやで、お酒はいったら機関銃のように喋るデェ」
チップの一万円札を振りながら見せた。
女はいいなぁと羨ましそうに三郎は一万円札を見ながら、
「へー、チップなんかくれて気前がええやないですか」
チョロイものやといわんばかりに、
「うん、小説褒めたら、チップくれんね、アホやろ」
「上手なンですか、小説は?」
「うむー、小説と言うよりも漫才の台本やね、、おまけに来年は直木賞取るって張り切ってはるわ、気の毒やろう」
直木賞? 名前だけは聞いたことがあったが、知ったかぶりをして、
「取れそうなんですか?」
「せやなぁ直木賞と言うよりも植木ショウやな」
「なんの意味ですか?」
「あのパパ、人より気(木)が一本多いねン!」
入り口の方で人が騒いでる、大きな声で怒鳴りあっている。ヒョットして対抗する京橋組の殴り込みか! 三郎はおじ気づいた。果敢にもリカが間に割って入り、
「どうしたって言うのう、何で殴るのよッ、顔は私らの商売道具よッ、大丈夫? 亜希ちゃん」
三郎もカッコいいところを見せようと、恐々間に割って入った。
「お控えなすって、旦那さん! あっしやー、ここの若い衆で、南国三郎と申しやすケチな野郎でござんす。で、御前さんはどちらさんでござんすか?」と、時代遅れの挨拶をした。
「ワシはこの亜希の父親じゃ」
「父親ってことは、パパッ! お父ちゃん、なヌ!」
すごい剣幕で怒っている。
「最近、家に入れる金が多いもンじゃから、後をつけて来たらこの有様、こんな事をしてまで、お金作らんでも、ええわい、このバカタレー」
岡本亜希この店一番の売れっ子ヘルス嬢。年が若くオトコ好きのする顔立ち、ついている客は多い、親を助けるために大学の文学部を中退してヘルスの世界へ入った涙ぐましい女の鏡! 今や人気ナンバーワンの売れっ子。お客との挨拶は、「愛は皮膚感覚、お客はぎゅうぎゅう」が口癖である。
父親高岡冬樹は、貧乏を美学としている小説家。片時も本を手放さない頑固な父親。数年前離婚して姓が違うが間違いなく親子である。顔もそっくりだ。
「痛い、なんでなぐるのっ、うちはお父ちゃんのためにやってンのに」
「アホなこと言うな、娘に売春させて喜ぶ親がどこにおるとおもうてるンや、いっそのこと一家心中したほうがましや」
人目はばからず殴りつける父親。
「痛いっ、痛いッ、やめてぇー」
また、リカが間に割って入った。
「ちょっと、暴力はやめといて亜希ちゃんこっちおいで」
ここは男の見せ場と張りきった三郎、
「あんたがお父さんね、話は亜希ちゃんから聞いとるとよ、人の保証人になって家が競売にかけられるとね? この亜希ちゃんは、お父さんが苦労して建てた家を守ろうと、毎晩涙をのんでがんばってるっちゃが」と、興奮して思わず訛りが出たが三郎は冷静に言えた。かねがね事情は聞いて知っていたのである。
父親の頭からは湯気が立ち、眼が血走っている。
「それでも、こんな商売せンかてぇ」
ティッシュで鼻血を拭きながら娘亜希は言った。
「他に稼げる商売あるの? お父ちゃん、女ひとり、働いてなんぼになるの」
下を向いて、首を縦に振りながら、世相の虚しさを噛み締めるかのように、三郎は、
「今、不景気で株も下がってるしね、銀行も潰れてるぅ」と、天を仰いでいる。
見かねたリカが、
「お父さん許してあげて、亜希ちゃんこれで鼻血ふき」と、さらにティッシュを手渡した。
「リカさんすいません。ウチも、うれしゅうてやってるのと違う、落ち込んでるお父ちゃんとお母ちゃん見てるのがつらかった。弟も大学行きたがってるし、ウチさえ、我慢したらみんな幸せに暮らせる。そう思うて」
目頭を押さえている三郎。
「泣けてくるっちゃがね、ええ話やネェー」と泣き出した。
かまうことなく自分の言い分をぶつける父親冬樹。
「生意気なこと言うな、家(うち)は先祖代々名門の家柄や、こんな恥さらしは、はじめてヤッ、御先祖さんに申し訳がたたン」
家柄を言われて怒った三郎、俄然張り切りだした。
「名門、それが、どないしたと? オレは百姓の子やけど、亜希ちゃんは立派じゃ、親孝行のええ子じゃがね、べ平連の小田実が言うとったわ、売春は人類最高のアルバイトやとね」
作家でもあるべ平連の小田実の信望者だった亜希が驚いて、
「サブちゃん、ほんま? それって」
「うん、朝までテレビで言うとった。女は身を犠牲にして家族をたすけるって、古代からずーっとじゃと」
身内でない無責任な意見に父親は閉口した。しかし悲痛な表情を露骨に表し、
「そんなこと人ごとやから言いマンネン、お宅ら」
三郎が、また、テレビで見た話を始める。
「昔、東北で飢饉があったとき、身内に女がおった家は生き残り、男しかおらんとこは、飢え死にしたそうじゃ」
テレビの話しなど言うてくれるな、と顔を見渡した。
「そんな、言い訳にならん、とにかくやめてくれ」と、脇に挟んでいた本、清貧のすすめ、を左手に持ち直しながら父親は言った。
それを聞いた亜希が泣きながら,叫ぶような声で一気に心の思いをぶちまけた。
「そんなら、お父ちゃん借金どないするのン。本売れる売れるっていうてからに、ひとつも売れヘンやンか、基本やとか常識やとか時代遅れのことばっかし出版社の人に言うてから、お母ちゃんが可哀想や、お父ちゃんのせいで神経やられて、やっと自分の家が持てたってあれだけ喜んでたのに、家とられてもええのンか?」
黙って聞いていたリカが、おもむろに言った。芦屋のパパに教えてもろうてんけどチョット聞いてくれる?
「松嶋新地だより言う新聞があったそうや。満州から引き上げてきて、働くとこも行く当てもなく、年老いた母と二人の子供をつれて、途方に暮れておりました。人の勧めで、松嶋新地にお世話になりました。今では小さな小料理屋を出せるくらいのお金もたまり、子供たちも大きくなりました。もし、ここで働くことがなかったら、まちがいなくわたしたちはこの世にはいなかったでしょう、売春とか不順とか、女性の政治家のみなさんはおっしゃいますが、このように感謝するものもあると言うことも、お知りおきください」
いろんな命のつなぎ方があるものなんだなぁと、三郎は泣きじゃくっている。
「益々、泣けるっちゃがね、姐さん、それいつの話しと?」
「昭和三十年三月三十日に売春防止法が出来る年のことや、ようさん失業者がでたらしいで」
全員が泣いている。生きるため、生きる難しさ、そして死なない方法は?
小説家の父冬樹が小さな声で話し出した。
「ワシ、小説書くのやめて、土方でも、守衛でも、なんでもやる。家とられてもええ、貧乏してもええ、この子をちゃんとした花嫁にしてやりたい、娘にこんなことさして、親として情けない、亜希、すまんなーっ、お父ちゃん許してやー、堪忍やでー」と、本をポトリと落として泣き崩れた。そして己の無力を詫びた。
修羅場をくぐってきたリカが涙をこらえて静かに優しく言った。
「亜希ちゃん今日は帰り、お父さんとお母さんとよう話し合いや、お父さん間違ごうても自殺考えたらアカンで、私が許さヘンシィ、これでタクシー乗って行き、家どこあった?」
「近鉄のひょうたん山です」
リカは財布からお金を取り出し、先ほどの一万円札を渡した。
二人を送って行きながら人生の浮き沈みについて考えた三郎。亜希と父親の冬樹は下を向いて歩いている。オレの夢は立派なヤクザになること、小説か? 夢か? 家族のために己を犠牲にする。己の欲望を捨てざるおえない者。そして夢を追いかける事ができる者、世捨て人になってホームレスになる者、心がすさんで覚せい剤に走る者、ヤクザに身を落とす者。とかく運命の阿弥陀くじはどこへ行くのやら? 目には見えない明日と言ういちページ。どんな夢を描いても、己の夢と現実との割り算で答えが決まる。歌手の夢? 俳優の夢? 作家の夢? 夢を持つことは良いことだ。しかし、才能を悟ることはもっと良いことだ! 周囲の励まし、努力、ガンバレ、気力、継続は力なり、なんとも人を悩ます言葉だろうか、名門野球部に入ってもプロ野球選手には一パーセントもなれない、芸能界に入っても売れるのは極わずか、商売をしても繁盛するのは一部の店。まして、小説など夢のまた夢! 本など売れない買わない今の時代。
「おーい、タクシー、おまえいらん高い、あっちいけ、三菱こい、こい、こっちこい、これ乗っていけ、ケンカするなよ、これすくないけど、母ちゃんにたこ焼きでも」と、くしゃくしゃの千円札を出した。
「三郎さん、おおきに、ありがとう」
「お兄さん、急に怒鳴り込んで、すンませンでした」と、父親冬樹は短い首をチョコッと垂れた。
「ええがね、わかってるちゃが、貧乏もええもンやで、仲良う暮らすンやで」
送った後にバッタリと芦屋のパパと出くわした。どこで飲んでたのかかなり酔っている。
「文学は心やッ! 人生は旅やッ! 女はくせもんや? あっ、君、あそこの不法売春宿のアンチャンじゃないの?」と、大きな声でくだを撒き散らしている。
「あッ、はい、若いもんで三郎と申します」
「この手紙をボーイの友江君に渡してくれたまえ、彼小説書いとるの知っとるやろう」と、小遣いと共にあづかった。酔っ払って千鳥足、手を振りながら別れを告げる芦屋のパパの後姿が見えなくなるまで礼儀正しく頭を下げている。
「どんなこと書いてると? 男のラブレターか? チョット見せてチョッ」
“賞なんか取るな、おもろい本を書け、売れる本を書け、運があったら賞は取れる、賞を取ったら運が消える。賞の重圧に負けたもの数知れず、人が楽しめる本を書け。井上陽水のような本を書け、矢井田瞳のような本を書け、高橋竹山のような本を書け、元ちとせのような本を書け、喜多郎のような本を書け、鬼束ちひろのような本を書け,河島英伍のような本を書け、仕事はやめるな、人生の旅をつづけろ、そして書け”
騒動もおさまり、ミナミの夜が更けようとしている。さっきまでの賑わいはどこへやら、人通りもまばらで、タバコの吸殻だけが山のようにころがっている。ダンボール箱に身をこじ入れて、眠っている浮浪者『風邪ひくなよ、頑張って生きろよ、おっさん死ぬなよ』商売をおわって帰り道につくホステスたち、酔っ払ってシャッターの前でダウンしているサラリーマン、みんな悩みをかかえているのか? それとも苦しんでいるのか? 笑って生きようぜ、悪いことばかりじゃないさ、明日はいいことがあるかもしれない。道頓堀に映えるネオンも消えて今日も一日が終わった。大阪の夜風は生暖かく、グリコの看板だけが両手を上げてファイト満々笑っている。
「サブちゃん、おまたせ、帰ろか?」
「へいッ、姐さん。ラーメンでも食べていかんと? オレおごるちゃが!」
二人は歩いて道頓堀を西に向かい左に曲がって御堂筋を歩いている。人影もまばらになった歩道には、最終電車に乗り遅れた人達が 小走りでタクシー乗り場へと急いでる。深夜の御堂筋には、タクシーが二列縦隊で客待をしている。無駄な燃料を使って流しても客などいない。それより、最終電車のなくなった客を待つほうが効率は良い、不景気というのにタクシーは増える一方。再就職先のない人たちの臨時の防空壕。
暴走族がパラパラパラブッブーパラパラブッブーとけたたましい爆音と共に通り過ぎていく。「うるさいなッ、ボケッ、今頃、耕チャンどうしてるかなァ」
それを聞いた三郎が「あいたいっすか?」と聞いたが、さり気なくリカは「別に」と一言。
耕介は、本家親分のお供で、関東一家との抗争事件の手打ち式に参列するために、東京へ行っている。
すでに、立ち食いのラーメン屋から湯気が風にのって漂ってきていた。
「ラーメン二つ」
リカは歩道沿いの花壇に腰掛けて仕事の後のタバコを一服のんでいた。左手には愛読書のシャーリーマックレーンのアウトオンアリムの読みかけの本がバッグから出されている。ページを数枚パラパラとめくり、「あー」と、ため息を一つついて、今日も一万円札数枚で何人の男がリカの身体を横切ってイッタだろうか? いつまでこんな稼業を続けなければいけないのか、私もそろそろ歳だし、と紙面を見つめぼんやりと考えあぐねる湿気の多い夜だった。ふと、亜希ちゃんとお父さんは折り合いがついただろうか、喧嘩になっていないだろうか、仲良くやってくれればいいのに、と思いながらタバコの灰を地面にポンポンと捨てていた。
茶髪の頭をぼりぼりと掻き、眠たそうな目を手でこすって、そのままチャーシューとネギをつかんでどんぶりへ入れるアルバイトの兄ちゃん。「汚いところが美味しいンや」と、誰かに聞いたことがあった。三郎はそんなことはかまわず食べ放題のキムチを自分のどんぶりにテンコ盛り入れている。リカはタバコを吸いながら遠めにそれをみていた。
「熱ッツ、熱ッツ、はやく姐さん持って、持って 」と一つのラーメンをリカに手渡し、割りばしでラーメンを上に持ち上げて山のようになったキムチを混ぜだした。真っ赤っかになったスープと麺をいっしょにアブブズルズル、アブブズルズルと飲み込むように辛さも何のそのノドの奥にかきこんでいた。リカはその仕草がおかしいらしく、うす笑いを浮かべながら二口、三口、口にしてスープを軽く飲んで花壇の上に置いた。それを気にすることもなくズルズルとかきこむ三郎。スープも一滴も残さず、全部飲んで、あーうー、うまかった。と、フー、と一息キムチ臭い息を吐いた。
「サブちゃん女の子に嫌われるわ」
「いやーそんなのいないからだいじょうぶっす」ウー、とまたゲップを一息。
「姐さんお水」と、気が利くところを見せて食べた鉢を持っていく。
「タバコどうぞ」とセブンスターを取り出してリカに差しだし、100円ライターを両の手で包んでボッと火をともし、リカの口元へもっていった。
パッパッと早口で吸いながらタバコの火を大きくして、ふー、と一服吐き出しニコリと笑い、「サブちゃん、歯にネギついてるわ」……ふと『この子はヤクザには、向いてない』……繁々と三郎の顔を見つめて思った。
「サブちゃん家に遊びに来ない?」と、三郎の視線がそれないよう、下から覗き込むように聞いてみた。リカの視線をもろに感じた三郎は目のやり場に困ってモゴモゴと口ごもりながら、タバコをオモイッキリ吸うそぶりをして罰悪そうにうつむきながら、虫が鳴くような声でボソボソと、「兄貴に怒られますから」
耕介が留守のあいだは、一人でサウナで寝泊まりしていたのである。
タバコの煙を横に吐き出し、苦笑いを頬に作りながらリカは毒づいた。
「あんた、気ィちいちゃいなッ、何も怖がることあれヘン、悪いコトするノンとちゃうし」と、小悪魔のように男の神経を逆なでした。
湿気に満ちた空気の温もりが今にも雨を呼びそうな 梅雨の夜空 。元歌手のリカは立って歩きだしながら得意の十八番天童よしみの頓堀人情を口ずさみ始めた。
♪負けたらアカン♪負けたらアカン♪東京に♪
三郎もつられて、♪芸のためなら、女房も泣かす♪ と、桂春団治の歌をうたっている。いつの間にか二人は手をつなぎ夜の御堂筋をリカのマンションのあるナンバ駅の方へと歩き出していた。
「ビールでも飲ンでて、汗かいたから、先シャワー浴びてくる、ネッ」
純な三郎は、耕介の愛読書、燃えよ剣、を手にとりながら、手酌でビールを飲むのだったが、何故か? シャワーの湯煙り漂う部屋がヤケに気になり床に跳ね返るパシャパシャという音が 耳について離れない。
……『どうしょう!』……
その時、バスタオル一枚を巻いて濡れ髪をかき上げながら、
「お待たせ!」と、三郎の顔をみて、首をキュっとすぼめた。
口元に妖艶な笑みを含んでいる。
「あー気持ち良かったァ。一杯ついで頂戴」と言って、グラスを差し出し、三郎が注いだ。
一気にゴクゴクゴクッと飲み干して、グラスを差し出し、どうぞ、と手渡し、
「サブチャン」妖しげに眼をジッと見つめ、右手でビールをとらずに、バスタオルをとった。
「姐さんアカン、姐さん、アカン」と、力弱く抵抗をする。
咄嗟に押し倒されて、ビックリした三郎。心のどこかに潜んでいた何か? が動きだした。
形だけもがくそのクチビルを、リカの唇が上からふさぐ。
「あウッ」
感電したかのように全身に稲妻がビリッと流れ、サソリに刺された虫のように麻痺する。身動きが取れない。毒が廻り脳髄まで硬直しゆく、男が蘇った。
……しかし…… 悪い? という気持ちが、欲望を押さえつけてしまう。
かまわずリカは責め続ける。ヘルスで鍛えたテクニック! 大きく揺れる乳房とくびれた腰で、天国へ導くのにさほど手間はかからなかった。
「ハァー」と、すっかりエキスを吸い取られて、放心状態の三郎の耳たぶをかるく噛みながら、リカは小くささやいた。
「サブチャン、私をつれて逃げて!」
パッと電気が消えた。あー、食べてはならない禁断の果実! その実は咲くのか散るのか? 立派なヤクザになる夢は? 夢、希望、才能、現実、そして挫折、人の運命とは? 人は、運命を変えることはできない。しかし、運命は、人を変えてしまう。カルマと運命の絡み合い。所詮ママにならないこの世。
手提げバッグを二つもちリカと三郎は大阪駅へと向かっていた。
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